- 2018.04.04 Wednesday
聖書物語・版画展
当院で毎週回診に行っている特別養護老人ホーム神愛園で「聖書物語・版画展」が開かれていました。
作者は平岡ジョイフルチャペルの大久保法幸様です。
聖書の場面の素晴らしい版画と聖書の御言葉、作者のコメントが展示されていてとても心を打たれました。
一部の作品と作者の方のコメントを載せておきますね。
彼女は人に真実を求め、裏切られ、傷つき、おまけにあまりにいちずな
振る舞いはイジメの対象になっていた。彼女の求める心の渇きを満たし
てくれるのもをイエスだけが与えてくれた。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く、
しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に
至る水がわき出る。」新約聖書 ヨハネによる福音書4章14節
人の足を洗うこと、それを人から言われてやること、さりげなくやることは、
ことさら難しい。あの人の足を洗うなんて、もっと至難の業。イエスは
最期に及んでなお、その大切さを身をもって示します。
さて、イエスは弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた。
「わたしがあなたたがにしたことが分かるか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」
とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで主であり、師である
わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。
新約聖書 ヨハネによる福音書 13章12〜14節
貧しい者への慰めは決して自己欺瞞となるものではない。
まして「宗教は麻薬」でもない。この山の上の空は
今のこの空と続いていて、貧しい者、悲しむ者の傍で
イエスが今も語りかけている。
この絵の中心は、曳かれて行くイエスの姿です。後ろを振り返り、
ペテロに万感の思いの眼差しを向けます。ひとりひとりをこんな
目で見られている。怖くて、嬉しくて胸がいっぱいになる。
人が負う十字架は、その歩むベクトルの逆向きに課せられるのではなく
むしろ十字架の重みを弾みとして歩む。負いきれない十字架は与えられ
ず、十字架に相応しい人が選ばれて課せられる。私に世に言う「障がい」
の子が与えられた。
- キリスト教関係
- 22:48
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- by いっちゃん