本日上記の講演会に行ってきました。この研究所は昨年発足し、今年は6回シリーズの講演が予定されています。

その内容は

 

ホスピス緩和ケアの原点ーホスピスのこころーを極める 柏木哲夫とシシリー・ソンダース

 

という題です。

 

第1回目は2018年1月に柏木哲夫先生から「寄りそうということ」というテーマでお話を頂いています。 私は用事があって出席が叶わず残念だったのですが、330名の参加ということですのでかなりの反響だったと思います。 シシリー・ソンダースはイギリスの医師で、近代ホスピスの創設者。1967年にロンドン郊外に「聖クリストファーホスピス」を開設しました。

そんなシシリーからホスピスの心の原点を学ぼうというシリーズ 本日は第2回目。

1回目の柏木先生の話を受けて、

 

愛知県がんセンター中央病院精神腫瘍科の小森康永先生が

 

「私と共に目を覚ましていなさい」シシリー・ソンダースの考える「寄りそう」

 

という題でお話をしてくださいました。

 

クリスチャンであればぴんとくる題名ですね。 1965年にシシリー・ソンダースが書いた著書の題名のようです。 今日の講師である小森先生はシシリー・ソンダースの論文集の翻訳をされたり、シシリー関係の著書を書かれたりで、シシリー・ソンダース研究の第一人者であられる方です。

 

今日の内容は結構難しくて消化不良気味なのですが、あとでまとめて書いてみようと思います。

 

その前に前回の柏木先生の講演要旨というプリントが今日資料として配布されて、しかもその内容がとても素晴らしいので備忘録がわりに書いておきます。長いです〜 でもなるほどと思うことも多く勉強になります。読んでみてくださいね。

 

1、癒される=自分の気持ちがわかってもらえる

「ホスピスにきて癒されました」とよく聞くが、辞書では「癒し」は2つの意味がある。一つは「病気や苦痛を治すこと」、もう一つは「長い間ほしくてたまらなかったものを与えて満足させること」 ホスピスで癒されましたとお話をする患者さんは2つ目の意味のほうだと思われる。 患者さんがやっと手にいれたものは「自分の気持ちをわかってもらってもらえた」ということではないかと思う。 それが「癒された」という言葉になっているのだと思う。

 

2、理解的態度は会話が持続し、患者さんが会話をリード

・癌末期の患者さんに共通する願いは2つで、一つは苦痛を取り除いてほしい、もう一つは気持ちをわかってほしいということ

・人間の感情には陽性感情より陰性感情が多くそれが人を苦しめる。相手の気持ちを理解するということは会話の中に陰性感情を理解する言葉を入れるということ。「それはつらいですね」「それは悲しいですね」「本当にやるせないですね」など ・安易な励ましは会話を遮断する。「理解的態度」が大切。それは患者さんが言っていることに対して「あなたの言いたいことを私はこのように理解しますが、それで正しいでしょうか?」と患者さんに返す態度。具体的には患者さんの言葉を自分の言葉に置き換えて患者さんに返す

・弱音をはく患者さんには弱音を吐ききっていただくことが大切。死を目前にした患者さんは死の恐怖を理解してもらいたいという思いがある。しかし医療者は死をどうすることもできない。しかしここで安易に励ますことはコミュニケーションを遮断する

・理解的態度をとることで3つのことがおこる。一つ目は会話が持続するということ、二つ目は患者さんが会話をリードするということ、3つ目は患者さんが弱音を吐ききることができるということ。

 

3、全人的医療には「技術力」「人間力」「寄りそうこと」「宗教の力」が必要

・ホスピス・緩和ケアの原点とは何か。当初は「その人がその人らしい人生を全うするのを”支える”こと」ではないかと考えた。今は「その人がその人らしい人生を全うすることに”寄りそう”こと」だと考えている

・全人的医療で求められるのは、1差し出すことができる「技術力」2、支えることができる「技術力」と「人間力」、3、寄りそうことができる「人間力」

・まずは技術がなければ医療を提供できない。それだけではなく優しさ、温かさ、心の広さなど「人間力」が患者さんを下から支えなければならない。もうひとつは「寄りそう」こと。医学的な技術力ではなく人間力が問われる。さらにそれだけでは不十分で、医学の範疇を超えた「魂の痛み」を背負うのは「宗教的な力」しかなく、スピリチュアルなアプローチが必要となる。

 

4、「寄りそう」と「支える」、「寄りそう」と「励ます」

・基本的態度は癌の病気によって変わる。治療期は「励ます」、再発・進行がんは「支える」、そして末期がんは「寄りそう」

・「支える」は下から支えること。支えなければ落ちてしまう。「寄りそう」は明らかに横から。寄りそえばなんとか進んでいけるという思い。「支える」は技術の提供で、「寄りそう」は人間そのものの提供

・「励ます」は人を外から応援すること。自分はあまり関与せず、参加しなくてもすむ。一方「寄りそう」は逃げ出さずに患者さんと空間を共にし自分自身が参加すること。励ましは時に相手に怒りを生じさせたり、傷つけたりすることがあるので注意 ・「支える」には人が下に落ちなかったという客観的な効果が感じられるが、「寄りそう」には寄りそわずとも進めたのではないかと、客観的な効果を感じにくい。患者さんには「死に逝く力」があると考える。寄りそえば、患者さん自ら「死に逝く力」を出してくれる。

 

5、「人間力」は「聴く力」「共感する力」「存在する力」「ユーモアの力」

・「症状のコントロールができれば私の仕事は終わりです」という医者は、技術を提供して支えるけれど、人間を提供して寄りそうことはしないということ

・寄りそう者に求められるのは「人間力」。「人間力」とは1、聴く力 2、共感する力 3、受け入れる力 4、思いやる力 5、理解する力 6、耐える力 7、引き受ける力 8、寛容な力 9、存在する力 10、ユーモアの力

・聴く力が一番大事。「聞く;hear」ではなく、「聴く;listen」。「聴く」という感じは「耳」と「心」。耳を心にして、心を耳にして個人的な関心をもってしっかりと聴くこと

・一番難しいのは「共感する力」。体験したことは共感できるが、未体験であるその人の死に対して共感することは非常に難しい

・「存在する」こと。その場にいるということはとても大変で大切。私のホスピスケアの原点でもある ・「ユーモア」はラテン語のフモーレス(humores)に由来。もともと血液などの体液の意味。それがなければ生きていけない。Vフランクル曰く「ユーモアは人間だけに与えられた崇高な能力」「一見絶望的な状況でもユーモアはその事態を自分との間に距離をおかせる働きをする」「ユーモアによって自分自身や人生を異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれる」

 

6、死の医学化、ホスピスの医学化 ・死は人間的なできごとで社会的な出来事。医学的な側面はあるが、医学的な出来事に矮小化することに疑問を感じていた。ホスピスは「死の医学化」を阻止する砦でもあった。今は「ホスピスの医学科」を懸念する

 

そして本日の講演会 愛知県がんセンター中央病院精神腫瘍かの小森康永先生が

「私と共に目を覚ましていなさい」シシリー・ソンダースの考える「寄りそう」

 

この内容を書くにはまずは聖書から紐解かなければなりません。

「私と共に目を覚ましていなさい」というのはまさに聖書からの引用です。

 

新約聖書 マタイによる福音書 26章38節 その前後から引用しますね。

 

36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。

38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。

44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。

46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 

状況は以下の感じです。

 

イエスキリストがもうすぐ捕まるという場面です。捕まったあとイエス・キリストは十字架にかかって死ぬことになりますが、神の子であるイエス・キリストはそのことはもちろん知っていました。捕まる前からそのことをイエス自身が予言して弟子たちにも話していてその記述も聖書にあります。

それで捕まる前にイエスは弟子たちを伴い祈りに行きました。イエスは悶え苦しんだとあります。人間のすべての罪を背負い、十字架にかかるという使命をイエスは担っていました。神の子だから万能だったのでしょうか。いえイエスは私たちと同じ人間としてこの世に生を受けました。そして私たちと同じように、泣き、笑い、苦しみ、おこりました。そしてもちろん痛みも感じます。そのイエスの弱さもここではみて取れるのかもしれません。詳しくは私もわかりませんが、罪の身代わりとして死ぬということは父なる神と断絶しなけらばならず、そういう霊的な苦しみで悶え苦しんだのではないかという考えもあるようです。

 

いずれにしても十字架を前にしてイエスは苦しみます。 弟子たちに一緒に祈って欲しいと願っていましたが、それは叶わず聖書にあるように弟子たちは眠りこけてしまいました。 そんなときにイエスは言いました。

 

38節「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

 

英語の聖書では 「My soul is very sad, even to death; keep watch with me」

 

とあります。

 

シシリー・ソンダースさんがおっしゃった「 watch with me」ということばは聖クリストファーホスピスのある病院の礎石に刻まれているとのことです(別のインターネットの情報から)

 

イエス・キリストがホスピスケアを受けている死にゆく人だとすると考えるのだと思います。 私たちはそばで共に祈り、寄り添わなければならない弟子たちですね。弟子たちは寄りそうことができず、眠ってしまい、あろうことかイエスが捕らえられた時は皆逃げてしまいました。一番弟子のペテロにいたっては「イエスのことは知らない」と3度も否定しました。 弟子たちはどうすべきだったのでしょうか。 死にゆくイエスと共に祈り、そばに寄りそい、そしてイエスが見ている風景を一緒に見るべきだったのではないでしょうか。

 

末期がんですでにやるべきことはやり尽くした患者さんに対して、その患者さんが抱える悶え苦しむようなつらさに 私たちは逃げることなく、その方と一緒に向き合う必要があるのだと思います。これがまさに寄りそうということなのかなと思いました。非常に難しいですが、ケアするものとして逃げずにしっかりと最後まで向き合うことが大切だと改めて思いました。

 

 

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